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眼鏡交換会、開催する時と場合

息子の三歳の誕生日会を開いた。 今年は初めて息子と近い年齢の子どもを招いてお祝いした。息子がお友達と一緒に走り回り、ベッドで飛び跳ね、おもちゃで遊ぶ様子を見るのは、幸せで胸がいっぱいになる時間だった。 保育士さんの話によると、息子は保育園では普段他の子どもと関わることはないそうだ。マイペースに自分のしたいことをして、満足している。他者と同じものを見て一緒にいることを楽しむということはあまりしない。以前家に様々な年齢の子どもたちが集まったときは、強いストレスを感じていたようで、申し訳ないことをしたなと思っていた。 そういう経験があったので、今回息子の誕生日会を息子の友達と祝うということを決めたとき、招待する相手、人数、部屋のレイアウト、おもちゃの配置などを何度もシミュレーションし、一部屋は解放せず息子の避難所として確保するなどなるべく息子の負担にならないようにということを熟慮した。結果、避難部屋を使う必要がないほど夢中で遊び、息子が初めて家族以外の他者と一緒に過ごすことを明確に楽しんでいる様子が見られてほっと胸をなでおろした。 息子が世界をどう見て、どこにストレスを感じ、何から喜びを得ているのかということを知ろうとする過程で、誰と、どのように、どうやって時間を過ごすかということに、自分自身はひどく無頓着であったことにも気づいた。 例えば人と食事をした、その帰り道。足取りが軽やかなときもあれば、どっと疲れることもある。なんだか消化不良だと感じることも多い。しかし考えるのはあの時ああ言えばよかった、喋りすぎただろうか、など会話の内容ばかりで、場や設定自体を見直すということはなかったように思う。 今回ちょうど良い機会だと思い、私が人と会う時に、何を楽しみどこに違和感を感じるかということを振り返ってみた。 まず私は会話を、相手が世界をどう見ているか知るための手段だと捉えている。それを知ることに得も言われぬ喜びを感じる。逆にいわゆる情報交換は、生活の助けにはなるのだけど、あまり楽しくはない。前者が文芸書だとしたら、後者は図鑑や辞典だろうか。図鑑や辞典にもおもしろいものも多いし、学びにもなるのだけど、文芸書のほうが私は好きだ。 当たり前のことではあるのだが、同じ人と過ごすのでも、一対一で話すのと、三人四人と人数が増えていくので違う。話す内容も、私自身の人格も。一対一は、あなたには

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