保育園よありがとう

 夫が我が子を保育園に連れていくのを玄関で見送り、扉を閉めた後の私の行動は決まっている。グラス一杯の豆乳を飲み、洗濯機のスイッチを入れ、おもちゃを床から拾い上げ、食べこぼしだらけの床にモップをかける。そしてソファに倒れこみ、目をつぶって一日の予定を整理する。

2か月前に大学院を修了し現在求職中の私であるが、1歳の息子は私が在学中から保育園に通い始め、今現在も通っている。これを日本の家族や友人に言うと大層驚かれる。在学中の出産も、親が無職なのに保育園に通っていることにも。

フィンランドという国ほど個人の権利が重要視される国も珍しいのではなかろうか、と移民の私は思う。学びたいという思いがあればあらゆるジャンルの学校に通うことができ、大学院であっても市民は無料で学ぶことができると知ったときにはそんなシステムをどうやって維持しているのか、何か裏があるのではと訝しく思ったものだ。フィンランド人と結婚した私も例にもれず無料で学べるというので、日本で専攻していた教育学をフィンランドでも学ぶことにした。同時に子どもを生むことを切望した欲の多い私たち夫婦は休学をはさんで出産することを決め、その通りにした。在学中に出産する人は少なくなく、大学の事務局に「産休取りますね」とメールするのみで手続きが完了し拍子抜けしたものだ。そして息子を出産後しばらくは育児に専念し、学期初めに合わせて復帰した私は、市立保育園に息子を通わせ授業を受け修士論文を書いた。

そんな簡単に保育園に入れるのかと日本人の私からすると驚きなのだがこれが入れるのだ。フィンランドと日本の保育に対するとらえ方の根本的に違うところなのだが、日本の場合は保育園というのは親が仕事等で面倒を見られない場合に預ける場所というのが一般的な考えだろう。最近は少なくなってきたが、例えば専業主婦の場合は家で面倒を見ることができるため保育園は利用しない。子どもの教育のためにどこかに通わせたいということであれば、それはサークルであったり幼稚園であったりと保育園以外が担い、保育園はあくまで働く親のためのものである。

これがフィンランドの場合、保育園はあくまで子どものためのものであるというスタンスを取っている。子どもには幼児教育を受ける権利があり、自治体と保育園がこれを担う。子どもが幼児教育を受ける権利と機会は親の状況によって左右されてはならないというわけだ。例え親が失業中であっても。

この現在の権利保障は2020年8月に施行された法令に基づく。ついこの間変わったばかりの法令だ。それより前の2016年秋から2020年夏は、保育園のあり方は日本と同じであり、誰でも通えるというわけではなかった。親が失業中の場合は自宅保育が可能とされ、保育園利用が制限された。これは保育業界の抱える事情が原因であろう。フィンランドの保育業界の労働状況は芳しくなく、保育士の処遇は正直良くない。保育士が何度もストライキを起こしていることからも分かる通り、低賃金に伴う人手不足であえいでいる。家で面倒を見られる人の子どもまで預けられたらたまったものではないという現場の声をくみ上げたのかも知れない。

しかしこの法令の施行は子を持つ親に大混乱を与えた。親も好き好んで失業しているわけではない。フィンランドでの職探しは現地人であってもかなり厳しいし、彼女レイオフされちゃったんだって、とか、夫の会社が業績悪化で次々解雇していてね、などといった会話が全く珍しくないのが現状だ。親が突然そのようなことになった場合、子どもは昨日まで遊んでいた友達と遊べなくなる。フィンランドには日本の幼稚園にあたる施設がないため、親が失業中であったり働けない状況であったら年長にあたるプリスクールまで家庭保育ということになる。これはフェアでないのではないかという声が高まり、結果「親が家にいるなら自宅保育ね」の法令は撤廃され、幼児教育の権利が保障されることとなった。

この法令改正は私のような移民にはとてもありがたい。息子と長く一緒に過ごしたいという思いもあるが、そうしてしまうと彼がフィンランド語やフィンランド特有の社会のルールを学ぶ機会を阻害してしまう。家の中ではいつも日本語で話しかけ、食事の前後には手を合わせていただきますとごちそうさまを言う。そんな環境しか知らない息子がある程度の年になっていきなり言語も慣習も異なるフィンランド社会に放り出されたら、間違いなく混乱するし、適応に苦労するだろう。フィンランド語のシャワーを浴びせることができない分、保育園でそうしてくれることはとてもありがたいし、その安心感があるからこそ家では日本語で日本方式で育児することができる。

最も、こうした保育園利用が保育現場を圧迫してしまうことに対する懸念はあるし、この法令もいつ変更されるか分からない。この環境が当たり前だと思ってはいけないなあと思いつつ、自らの夢が叶うよう今日も種蒔き作業に精を出す。


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