本を読む
物心ついたときから、文字があると目で追う子どもだった。
大人になって母に聞いた話だが、ひらがなを指で押すと読み上げてくれるおもちゃで勝手にひらがなを覚えた私は読むことに異様な執着を見せた。幼稚園で配られる月刊誌は、自分のものは活字が少ないと文句を言い二学年上の姉のものを楽しく読んでいたという。料理中の母が油跳ねをよけるためにテーブルや床に敷いた新聞紙の記事を張り付いて読むのも日常茶飯事だったそうだ。
人間の認知は視覚優位、言語優位、聴覚優位などがあると話題になることも多いが、その考え方で言うと私は確実に目から仕入れた言語からの情報に頼って生きるタイプの人間だ。講義で聞いてもよくわからないことでも本を読むと理解できたり、耳で聞いただけの単語はいつまでたっても覚えられないが書いたり読んだりした単語は比較的早く覚えられる(あくまで比較的ではあるが)。kindleとの相性が最高でAudibleとの相性が最悪なのが私だ。
さて、幼少期あれほど活字を追っていた私であるが、大人になるにつれ本の虫ではなくなっていった。映画にドラマにおもしろいコンテンツで溢れている現代、本からは遠ざかってしまった。なぜか。これは私の推測だが、「ながら見」ができないこと、そして大人になると読むジャンルに勝手なプレッシャーを感じてしまうこと、この二点が私を本から遠ざけたように思う。子どもの頃と異なり余暇の確保が難しい今、画面をつけっぱなしにして家事や作業の合間にチラチラ見ながら楽しめるエンタメは、私の怠惰でメリハリのない生活様式に悲しいほどぴったりと合致してしまった。本だとこうはいかない。オーディオブックなるものは存在するが、耳からの情報に疎い私は読み上げ途中に意識がどこかにふわふわと浮遊し始め、気づいた時には話の筋が全く分からず巻き戻しを繰り返す羽目になってしまう。読む行為は他の行動との同時進行がほぼ不可能だ。読むにはそのための時間を作り、一点集中しなければならない。
そして、読むジャンルである。子どもの頃は何でも良かった。ハリーポッターやダレンシャンのようなファンタジーには夢中になったし、伝記やノンフィクションもおもしろく読んだ。図鑑も大好きだったし、神話の類も想像を膨らませて楽しんだ。キノの旅や涼宮ハルヒシリーズのようないわゆるライトノベルにも大いにハマった。親の書棚からこっそり拝借した椎名誠や北杜夫のシュールな昭和的文体に大きな影響を受けた。
ところが大人になると、この世には現代社会や歴史を分析し伝達してくれる本や知識を深めることができる本、社会の知っておくべき側面を映した本が溢れていることを知り、「読書」とはそうした本から自らが学び取る行為であるように感じてしまうようになったのだ。読書とは俗なものではなく高尚なものであるべきなのではと、誰にかけられている訳でもないプレッシャーを勝手に受け取り、結果本棚からどんどん足が遠のいていった。
フィンランドに引っ越してきてから数年は、そもそも入手困難ということもあり、日本語の本を読むことがほぼなかった。すると私の語彙もみるみるうちに萎んでいき、友達や家族と電話をしても言いたいことが出てこず無言になってしまうことが増えた。近い単語を使ってみるのだが、自分で言っていることが理解できない。これはまずいと思っていた際に住んでいる街の図書館で吉本ばななの著書を見つけ読んでみたところ、乾燥わかめに水を垂らしたかのように脳が言葉を吸収し、広がってゆくのを感じた。何にも代えがたい快感であった。それから私は一時帰国の際に日本語の文庫本をまとめて購入してこちらに持ってきたり、kindle unlimitedという特定の本が月額料金で読み放題のサービスに入会したりと、零れ落ちた語彙を拾い集めるために慌ただしく動いた。2022年の目標の一つに本を読むことを掲げ、気合十分の今日この頃である。
最近はジャンル問わず何でも読むが、好んで読む言葉たちを敢えて分類するならば、一つ目はお役立ち系、二つ目は電撃ビリビリ系、三つ目は誰かの目線を経験系、四つ目はしばしその世界から抜け出せない系の四つである。
お役立ち系というのはその名の通り、日々の生活の中で試してみたくなる、生活をよくするための知識が詰まった本である。ビジネス書、育児書、インテリア書等である。ライフハックを試してみるのは楽しいし、育児書で子どもの発達を知ったうえで子と接すると、解像度が上がって見える。
電撃ビリビリ系というのは、複線回収があまりに気持ちよく真相を知ったときに脳に電撃が走ることから先ほど名付けた。ミステリーやサスペンスの類である。綾辻行人や中山七里といったそれらのジャンルを得意とする作家たちによる緻密に作られたストーリーラインと情報の見せ方は、職人技としか言いようがない。
誰かの目線を経験系とは、つまるところエッセイや、エッセイに近い物語である。見たもの感じたことの鮮やかで瑞々しい描写は、まるで私自身が作家になったような気持ちにさせてくれる。こうした本たちを読むと決まって世界が鮮やかに見え、私も文を書いてみようか、なんて気持ちになる。
最後のしばしその世界から抜け出せない系、これが私が最も心を奪われる文章である。往々にしてこれらの本は、何をどう感じるかが読者に委ねられる部分が多い。ハッピーエンドなのかバッドエンドなのかが明確でないのはもちろん、その世界で何が起きたかさえも曖昧にされる。摺りガラス越しに、しかしとても近いところで情景が展開される。もっと近づいて見ようと思うと、今度は近すぎてよく見えない、そんな感覚になる。その世界の人物たちが取る行動には一貫性があるが、とはいえなぜ彼らがそうするのかは分からない。覗く側からするとはっきりしないことが多い。それ故ずっとその世界のことを考えてしまい、引きずられ、自分がどこにいるのか定かでなくなる。そんな本がある。出会える確率はそう多くはないが、私にとって手元に置いておきたい本とはこういう本なのだ。
さて、日本語の本を読むようになって語彙力は上がったのだろうか。正直なところ、あまりその効果は感じない。相変わらず言葉には詰まるし、自分の発言の意図が分からなくなることもしばしばだ。よく考えると本をよく読んでいたころからそんな感じだったような気もしてきた。それでも私は一縷の望みをもって、楽しく活字を追い続ける。
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