包摂されながら排除される私たち

文献を探していて偶然見つけたとある論文を読んで、震えてしまった。発行は一昨年。Becoming integrateable: hidden realities of integration policies and training in Finland(Masoud, Ameera ; Holm, Gunilla ; Brunila, Kristiina)、「『統合可能な人』になるために:フィンランドにおける統合政策と訓練の隠れた現実」、とでも訳そう。翻訳者ではないのでこの辺の用語の定義が明確ではないのはご容赦いただきたいが、ともあれフィンランドの統合政策についての論文である。

自分や周囲の友人の身に起きていることなのに、全く自覚がなかったことを、スクロールするたびに示してくる。自身の中にももともと存在していたにも関わらず自分では気づいていなかった現象。論文を読む画面が鏡になり、その鏡がさらに顕微鏡になったかのような嫌な感覚。嫌なのにそれが言語化されていることが嬉しくてたまらない、そんな論文だった。

端的に論文の主張を述べると、著者はフィンランドの統合政策とトレーニングが「排除的包摂」であるという。排除(exclusive)と包摂(inclusive)、お察しの通り対義語であるがどういうことか。

フィンランドの移民難民に対する統合政策は国際的な評判はまずまずで、日本人を含めたくさんの移民難民が恩恵にあずかっている。職安で個人の統合計画が作成されるわけだが、学校に通ったり働いたりするためのフィンランド語のコースは国が無償で提供してくれる。フィンランド語のコースを卒業したのちは職業プログラムに参加したり職業学校に行く人が多いが、それらも学費がかからないどころか月ごとに給付金が振り込まれる。一見すると理想のシステムである。

しかし著者は、ここにこそ排除の種があるという。このシステムでは、「統合=雇用されること」になっており、難民や移民に対する行動の強制と制限を含んでいると主張している。移民に限らず無職の場合は65日以内に何かしらの動きを見せなければ国からの給付金が4.65%減額になるが、これは言い換えると「とにかく何が何でも早く仕事なり学校なりを見つけて通ってくれ、でないと給付金を減らすよ」というプレッシャーを孕んだ権力構造になっているというのだ。確かに言われてみればその通りである。移民は収入状況が不安定であることが多く、給付金に依存せざるを得ない。なのでジョブトレーニングのプログラムを手当たり次第に探す。特に南部フィンランドでそうしたコースを見つけるのは難しく、移民たちは見つけたもの全てに応募し、その分野に興味があろうがなかろうが合格したコースに通うというケースが散見されるという。早く働いて納税しなさいねという本音が全く隠れていない構造であるが、著者が問題視しているのは、この構造に効果があるならまだしも、結局雇用率を高めることにはあまり成功していないという部分である。急いで見つけたコースなり仕事なりに本人のこれまでの経験やスキルが活用されていないため、結局勉強が長期化してしまったり、また別のトレーニングプログラムを探したりすることになってしまうというのである。

一見フィンランド社会に包摂しているようで、実際は資格やスキルといった個人の背景に合わない統合プログラムに誘導し逃がさない仕組みが出来上がっているのではないか―これが著者の主張である。

その裏付けとしてインタビューの引用が紹介されていたが、まあよく聞く話のオンパレードなのである。ここはツイッターですかと思ってしまうくらいのラインナップ。

「入れる学校がなかったが、失業手当を失わないためにどんな職業訓練にも応募するようになった」「職業訓練プログラムの入試を受け続け落ち続け、職安からは『今何をしているの』とプレッシャーをかけられた」のような経験を重ねた移民たちは、じきに「フィンランド社会に望まれるものにならなければ」という圧力と相まって、突っ走り始める。なぜなら足を止めてしまっては「統合可能な存在になるための十分な努力をしていない無責任な移民」だということになってしまうからだ。

移民であればだれでも入れるプログラムも存在する。しかし、これもまた包摂的な施策でありながらも同時に排他的な側面を持っていると著者は主張する。なぜなら「移民であればよい」という条件は、言い換えるとあなたにコースを修了する能力があるかどうかは知りませんよ、というメッセージに他ならないからだ。いわゆる受験が存在しないということは、そのコースで扱う分野に興味があるかないか、資質があるかないかをフィルターする機会がないということである。それはつまり、プログラムに参加して失敗してもそれは個人のせいであるという冷たい一面を兼ね備えているとも言えると筆者は言う。クラスの中にできる人とできない人の格差が生まれ、講師自身も生徒がどこまで自分の言っていることを理解しているのかわからず暗中模索、また生徒も不満を抱えながら非効率的な学びを続けざるを得ない現状。インタビューの中には「先生の話をさえぎって分からないと言い続けるのは恥ずかしい」という声もあったという。これは、筆者の主張する「包摂を謳う統合プログラムが、実際のところその内部でさらに二項対立の構造を再生産している」という例に他ならない。

職場インターンも移民統合プログラムの一翼を担っているが、フィンランド語を使うどころか都合のいい無給の使用人のように扱われるケースも多い。確かに職場インターンは雇用への最短経路の一つではあるかもしれないが、掃除や皿洗いを押し付けられ、それはインターンの主眼ではないと主張すると疎んじられたというケースが紹介されている。問題なのは、実際こういうことが起きていたとしても、システム上このインタビュー対象者は「統合されている」以外の何物でもないという部分である。職場インターンに参加している=統合している=給付金をもらえる。逃げ場のない権力構造である。皿洗いと掃除を命じられてはい分かりましたと従うことは排除的包括を推進することになってしまうが、ではこのインターンはやめますというわけにもいかない板挟みは、私の知るかぎりでもよく起こる「インターンあるある」である。

上記のような「排除された人々」は、その実態に反して「包摂されている」とみなされる。統合プログラムや職場インターンに参加している限り、たとえそれまでの経験や興味にそぐわない教育プログラムに参加していても、また就職難に直面していたとしても、統計上は包摂されていることになってしまう。そして包摂されているとみなされる限り、統合の様々な措置の間に実際に直面する課題や不平等はそのままにされてしまう。そして今日も移民は、統合可能な主体になるために一定のメカニズムのもとで行動するよう支配されている。

なんとも後味が悪く、かつ現実的な論文ではなかろうか。気心の知れた移民の友人と話すランダムな愚痴めいた個人的見解に根拠がついてしまい、画面の前で一人狼狽えてしまった。

インタビューは他にも人種差別などにも触れており、興味深いナラティブばかりだった。だいぶ端折ってしまったのでぜひ原文に目を通してみてほしい。

Ameera Masoud, Gunilla Holm & Kristiina Brunila (2021) Becoming integrateable: hidden realities of integration policies and training in Finland, International Journal of Inclusive Education, 25:1, 52-65, DOI: 10.1080/13603116.2019.1678725

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