マッチのように褒めたい

息子の成長が著しい。まず歩き始めた。食事の幅が広がり、自分でカトラリーを持って食事をしたがる。ペンを握って紙に線を描く。洗濯物を干しているとよちよちと寄ってきて、洗濯籠から洗濯物を拾い上げ、大人の真似をしてパンパンと膝に叩きつけてしわを伸ばして渡してくれる。身体にボディーソープをつけてあげるとまん丸お腹をごしごしとお腹をこすって洗う。歯ブラシをシャカシャカと動かす。机に登ってはいけないと注意すると、泣きわめきながらも我慢する。

行為や結果でなくプロセスを褒めるべきというのは現代教育の基本のキではあるが、なかなかこれが難しい。彼の成長に本心からつい「すごい!」「上手!」という言葉が出てしまう最近ではあるが、これらの言葉は具体的に何を褒めているのか曖昧なのと、最近特にすごいや上手が飽和気味なので、一週間すごい、上手、偉いの3単語を使わず子を褒めるチャレンジを自分に課してみた。

そうと決めて早速シャワーに入る。自分の身体をこする息子に「上手に洗うねぇ」と言いかけ、口をつぐむ。代わりに言う。「自分で洗ってるんだ!」「身体きれいになったねえ。」バナナの皮を剥く息子に「皮むけたねぇ!」「おいしそうなバナナ出てきたよ!」、洗濯物を渡してくれたときは「どうもありがとうね」「しわが伸びてる!」、スプーンでヨーグルトを掬い上げて口に運ぶのを見て「自分で食べてるねえ」「スプーンそうやって使うんだ!」、絵を描いたら「青とオレンジの線描いたんだ!」などなど。思わず出ていた「上手」や「すごい」を排除することは最初は難しかったが、一週間経つと大分慣れた。

広辞苑によれば、「褒める」とは「物事を評価し、よしとしてその気持を表す」ことであるらしいが、この生活をしてみた今、定義に疑問を抱いている。私は褒めることは良く言うことだと思い、すごいや上手のような賞賛の意味を持つ言葉を多用してきた。が、人を評価し良いと伝えること以上に嬉しい「褒め」とは、私はあなたを見ているという具体性に富んだメッセージなのではなかろうか。それは子どもであっても、大人であっても。頑張ったことを見てもらっている実感こそ、心を豊かにするように感じるのだ。

ブログを書き始め、ありがたいことに「分かりやすい文章」「良い文章」と褒めていただくことがある。これも私にとっては天上の喜びで、ひとりうるうるしたりニヤニヤしたりしてしまう。しかし、ある日言ってもらった「○○の記事でこういう書き方していたじゃん?」という言葉を受け取ったときの嬉しさは震えが来るほどで、何日経っても消えぬ火のように胸の内で燃え続けている。そしてその火は書き続けようというエネルギーになって、今日も私に筆を取らせている。言った側は褒める意図はそこまでなかったのかもしれない。しかし、その言葉は紛れもなく「あなたを見ているよ」というメッセージであり、私にとっては究極の「褒め」として作用した。

褒めとはつまるところ、「あなたはこれをしましたね」ということを、具体性を持ってポジティブに示す行為なのではないだろうか。「スプーンで食べられたね」「この色選んだんだね」「ペンはそうやって持つと描きやすいんだね」「おもちゃを籠に入れたんだね」「あそこの引き出し閉めたんだね」と羅列してみると単なる事実を述べているだけなのだが、感情を込めてこれらを言った時の息子の表情を見るに、「上手」以上に思いが伝わっているような気がしてならない。息子の心に小さな火を灯していくことができているのなら、こんなに嬉しいことはない。

当たり前のことではあるが、こういった褒め方をするには相手に注目していることが必須となる。息子を含め、人とおざなりに関わっていてはこれはできぬな、行動一つ一つに関心をよせスポットを当てた視線を向けよう、と改めて意を固くすることとなった一週間の実験だった。


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