Do you want to help me?という表現

依頼の表現として、英語ではDo you want to?という言い回しがある。

手伝ってくれる?Do you want to help me? 窓を閉めてくれる?Do you want to close the window?のように使う。

初めてこれを聞いたのはフィンランドに交換留学に来たばかりの19歳のときだった。お呼ばれしたお家で、テーブルセットを手伝ってと頼まれたのだ。直訳するとあなたはテーブルセットを手伝いたいですか?となるその問いに一瞬面くらい、私が知らないだけでテーブルセットは食事の準備の花形なのかしら、だからそれを私にやらせてくれようとしているのかしら、などと思った。その後彼女と話していて複数回この表現を聞き、ああただの依頼の表現なのかと気づいた。

気づいてからも、あなたは私を手伝いたい?子どもの面倒を見たい?という問いかけに、積極的にやりたいわけではないのだが…と釈然としない気持ちでいた。慣用表現であっても、してくれる?と真っ直ぐ頼んでくれた方が気持ち良いのにとまで思っていた。

今では私もこの表現を使う。きっかけは何だったか覚えてはいないのだが、試しに使ってみていたある日、突然腑に落ちたのだ。

私が学校で習った手伝ってくれますか?の表現であるCan/could you help me?に対しては、基本的に物理的に不可能でない限りNoとは言いづらい。問われているのは「できますか?」だからだ。しかしDo you want to?つまりしたいですか?というのはあくまで意思を聞いている。Can you help me?がストレートに「手伝ってくれますか?」だとしたら、Do you want to help me?は「手伝ってもらってもいい?」のようなカジュアルさを備えたニュアンスだと理解している。トイレに行ってくるから荷物を見ていて欲しいと友達に頼まれて断る人はまずいないだろう。そういった相手に大きな負担でないことを依頼するときにDo you want to?を使うことで、相手が優しさという自由意志で荷物を見ていてくれているようなニュアンスを醸し出すことができる表現ということではなかろうか。ネイティブ英語話者ではないので細かいニュアンスを理解している訳ではないが、そういう論理であると考えるとしっくり来た。

自分でこの表現を使い始めた最初の頃は、不遜に聞こえないか心配していた。しかし何度も使っているうちに、Can/could you?のニュアンスとの使い分けもできるようになってきたように思う。例えば友達同士でピクニックをするとき。私はスナックを持っていくから、飲み物を持ってきてもらえる?と聞く場合。Could you でも全く問題はないのだろうが、それだと私が相手の役割を決めて采配しているようなニュアンスが若干ながら出るように感じる。そうではなくあなたと私は同じ立場で横並びで、これは提案ベースの依頼だよ、を滲ませるためにDo you want toを使う。

自分の中に文法のロジックを組み立てる。ロジックが理解できたらひとまず使ってみる。初めはこれで本当にあっているのかと不安になるが、その度ロジックに立ち返る。矛盾がなければまた使ってみる。そんなことを繰り返すうち、だんだん表現がしっくり来るようになる。依頼の表現方法が一つ増える。

ネイティブでなくともそのロジックを何度も使ってみることで、後天的に自分の中に回路を通していくというこの作業を、私は言語学習以外でもよくする。

例えば私は失敗を過度に恐れるきらいがある。元々の性格、若かりし頃の度重なる失敗による傷、環境。様々な影響により体得してしまった思考の癖。

しかし失敗に過敏すぎることは、あまり良い影響を及ぼさない。失敗を恐れるあまり一歩も動けず行動できないことがしばしばある。そこで自分の中に元々持っていない別の概念を意図してインストールするのである。「人は失敗をするもの。繰り返さないようなるべく失敗しない仕組みを作ろう。」

初めのうちは、Do you want to?と使ってみたときと同じように、違和感を覚える。私が気を付ければ良かったこと。失敗したのは私が不器用だから。卑屈王国出身の私はやはりそう思うのをやめられず、「人は失敗をするもの」だなんていう言葉は言っていてしっくり来ない。恐る恐る呟きながら、本当にこれで合っているのかと訝しがる。凍てつく北国卑屈王国とは対極にある、どうやら繁栄していると噂の合理王国ではどうやらこの表現が使われているらしいのだが。生まれてこの方依頼をするときは丁寧にお願いすることが筋だと考えてきたが、ネイティブ英語話者は相手にしたいかどうかを問う文で依頼をするらしい。ネイティブ合理主義者も同じく「人は失敗をするもの」を自然に使いこなしているのだろうか。

そんなことあるかなと不安になったとき、ロジックに立ち返る。一つの失敗に長いこと落ち込み、布団をかぶってため息をついているより、さっさと切り替えて対策を練ったほうがよほど建設的だ。それは確かにそうなのだ。気持ちが論理に追いつかないが、しかし冷静に考えると矛盾がない。

そうして「人は失敗をするもの」と呟くうちに、時間をかけてだんだんとそれが口になじんでくる。もちろん本来の性格は変わっていないので、相変わらずちょっとしたことで絶望してしまうのだが、しかし自分が立ち直りの言葉を持っていることを知っているので、布団をかぶる時間がだいぶ短くなった。初めは合理王国から聞きかじった借り物の言葉だったのが、だんだん使いこなせるようになり、自分の中に失敗をしても切り替えられる別の回路が生まれる。必要としている時に、必要としている言葉の力を借りることができるようになる。

こうなると私は思うのだ。忌避感のあったあの表現を、初手で拒否しなくてよかったな、と。

Do you want to?のように、日本で生まれ育ったネイティブ日本語話者の私には、少し横柄に聞こえる表現。頻出表現というほどでもなく、別に使えなくても困らない。私の口には馴染まない表現だから使うのは避けるというのも一つの選択肢だった。しかし、その表現をちょっと物にしてみようかなと頑張ってみることで、表現の幅が増える。

触れたときにこれは自分には似合うまいと思ったとしても、もしかしたらものにできるかもしれない。困った自分を救ってくれる道具になるかもしれない。そう思うと、自分にないものを持っている人や、自分より若い人の使う言葉、そこに潜むロジックをもっと知りたくなるのだ。

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