言葉にすることは思考の試着なのかもしれない

物を減らしている。

生まれてこの方収納率300%の空間で生きてきた。しかし娘が生まれるにあたり一度しっかり片付けようと決心し、ミニマリズムという生き方をしている人々との出会いも手伝って、気づけば物を減らしだした。


服に靴に食器に本、調理器具、その他様々なものを、捨て、捨て、捨て、譲り、たまに売る。


今現在まだ旅の途中だという感覚があり、もっと少ないもので暮らしたいと思う程にこの作業にのめり込んでいる。


中でも私は、服を減らす作業が好きである。


クローゼットに整然と並んだ澄ました顔のワンピースたち、タンスにお行儀よく収まっているTシャツたち。あるべくしてあるといった雰囲気を醸し出すそれらは、眺めている分には減らす必要などないかに思える。


しかしそんな布たちは、クローゼットから引っ張り出すと、突如としてざわめき出し個性を放ち始める。何年か前に買ったワンピースは、そこまで時間が経っている実感はないが今の私には元気すぎるし、お気に入りのセーターは定年退職を待ち侘びているかのようにくたびれている。


袖を通してみると更に顕著だ。買ったときには手放すときが来るだなんて思いもしなかった服が、着てみると微妙に度の合っていないメガネのように感じる。確かに裸眼でいるより見えやすくなるのだが、果たしてこれが私に最も合っている度なのだろうか、と改めて考えてしまう、そんな違和感。完璧と言うには何かがズレている。肌に触れる繊維の感覚なのか、少しダボつく腕回りなのか、はたまた洗濯のしやすさなのか。仕舞っている分にはそこにセーターがあるなあ、だったのが、着てみることにより、ここには肌に触れると少しチクチクするがシルエットはかわいいセーターがあったのだなあ、と気づくのだ。


そんな作業をしていると、私の頭もクローゼットに思えてくる。あそこに青いセーターがかかっていたなあ、グレーのシャツもあったなあ、あれは七年も前に買ったんだったかなあ、緑のドレスを着て化粧をした数年前の私はなかなか綺麗だったのでは、なんて頭の中でいつも考えている。しかし、言葉という形で一度頭の外に出すと、様子が違って見える。私はこれを着ていて本当に心地よいだろうかと疑問を抱きはじめる。学問が好きで大学院に進学した。念願叶って手に入れた青いセーター。どちらもその時点では疑いようのない事実だったが、しかし言葉にしてみると、意外とペラペラで、今の私にはどうも着心地が悪い。緑のドレスを着た私は確かにエレガントだった。頭の中で思い返すと気持ちよく、その気持ちの良い記憶を何度もなぞってしまう。しかし今言葉という形で着てみると、なんとも流行遅れなシルエットで、この先着ることはもうないだろうということを突き付けられる。


本当に?本当にそう思ってる?言っていて気持ちの良い言葉に酔っていない?逆に自分を刺しすぎていない?そのささくれを毟る必要はある?クローゼットから引っ張り出して言葉を着てみると、そんなことを自分に問いかけることができるようになる。


言葉にして頭のクローゼットから出し街に繰り出すと、意外なフィードバックを受けることもある。大して何とも思っておらず、他に良いものがあったら買い換えようと思っていたジャケットが、似合っていると褒められる。大のお気に入りのスカートにはリアクションはなかったのに。


人に見られることにより、良くも悪くも、人から見た自分と自分の言葉を意識する。似合うと言ってもらえるスタイルを知る。自分の好きなスタイルとそれらが合うと嬉しいし、合わなくてもより自分を詳しく知ることができる。自信満々に家を出たコーディネートが、誰の目も引かないかもしれない。しかし自分を知るという意味では、まずクローゼットから引っ張り出して着てみる、着たら今度は家から出てみる、そんな作業が欠かせないのかもしれない。いきなり群衆の前に飛び出して、似合っていないぞ!という声を浴びる勇気はまだあまりないのだが、しかしまず自分の持っている服を着てみる、違和感があるかどうか確かめる、これどうかな?と親しい友達に聞いてみる、そんな風に自分を知り、また同じ系統の服が好きな人と出会えることを期待しながら、数年ぶりにブログを更新してみた。


着ていて違和感のある服を手放し、私に一番似合う、着心地の良い服を探しに行く。時間がかかるかもしれないし、遠いところにあるのかもしれない。もしかしたら既に手持ちのクローゼットに入っているものがそれかもしれない。分からないけれど、探し続ける。


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