鸛を追う ♯1 はじめに。
ツイート画面を開き、書いては読み返し消去する。また開き、書き、ツイートはせず消去する。これを言ったら周りはどんな反応をするだろう。腫れ物に触るような扱いになってしまうだろうか。それは悲しい。
きっと私以外にもたくさん、たくさんいるのだろう。言わないだけで。でも皆言わないから、私は気づけない。気づいたとしても、本人が話したくないところに触れるなどあまりに無礼だ。なので飲み込む。心の中で燻る思いは誰に届くでもなく壁打ちされ、すり減っていく。
言ってしまおうか。「不妊治療がしんどいです」と。カフェインレスのコーヒーを飲みながら幾度となくそう思っては、私の周りには優しく共感度が高い人が集まっていることに思い当たり、私に気を使って周りが妊娠出産や子育ての話題を避けるようなことがあったらそれはなんと悲しいことか、そんなのは嫌だと飲み込む。その繰り返し。一方で、所謂匿名の「不妊治療アカウント」でないアカウントから発信があることで勇気を得る人もいるのでは、と、そんな風にも思うのだ。そしてとりわけ海外で不妊治療をしているケースの例も知りたいと思っている人が多分にいることは予想もついた。
この気持ちを外に出したい。一人で抱えていては、いつか暴走するのではないかという気がして恐ろしい。出したい。出したい。
情報発信ブログを始めようか。悪くない。重くならないように、イラストや漫画なんかも添えようか。そう思い当たり、漫画を描いた。夫は「こういう情報欲している人多いだろうから、何でも書いていいよ。男性の立場から不明な点があったらいつでも聞いて」とまあプライバシーがさらされるというのに菩薩の生まれ変わりのような反応をしてくれた。彼の協力のもと、エッセイ漫画をいくつか描いたところで我に返る。私は私の思いが摩耗していく様を自覚しなんとかせねばと、外に出さねばと思ったのではなかったか。なのにこのエッセイ漫画は、むしろ自分の気持ちをデフォルメしてしまっているではないか。自身の群青色の思いも水色の思いもすべて青で表現している。スキルのない私の描く漫画とは、わかりやすくするとはそういうもので、結局気持ちの壁打ちは変わらないし、暴走を始めそうな自分の気持ちに向き合えてもいないではないか。
無しだ、無し。もう一度、私はなぜこれを表に出したいのかということを考えねば。自分自身とゆっくり対面で座り、質問を投げかけていく。なぜ、壁打ちではいけないのか。なぜ外に出そうと考え始めたのか。
私は自分のセクシュアリティを公表している。表に出さない人も多い中、生涯のパートナーを得てもなお公表する理由は単に、それが私の確固たるアイデンティティだからである。とりわけ異性パートナーと結婚した私は、自己申告なくしてはヘテロセクシャルであると誰もが信じて疑わない。それは私にとって恐ろしかった。自分を自分たらしめるものを、まるで無いもののように扱うことが、ただひたすらに恐ろしかった。
同じことなのかもね、と独り言ちる。この一年半、子どもを望みながら授かれなかった私は、最早一年半前の自分には戻れない。朝から晩までこのことを片時も忘れることができていない。何をしていても、どれだけ没頭して作業に当たっていても、頭の片隅に黒い靄が存在している。私が受信するものも発信するものも、その靄がかかったフィルターを経由している。私の情報の受け取り方が、世間一般のそれとは異なるものになってしまっていることに自覚があり、しかしそれは別に矯正が必要なものでもないということもまた自覚している。私の性的指向のように。私は情報をヘテロセクシャルの方々と同じように受け取ることはできないし、発信することもできない。それはともすればアブノーマルであるが、アブノーマルだからといってヘテロセクシャル的考えを自らに課す必要はない。それと同じでは、と。
頭の中の靄フィルターを経由すると、何でもないことが針のように鋭くなることもある。針に心臓を突かれた痛みは確かに存在するのに、その針は私の頭の中の黒い靄が作り出した幻想で、どこにも存在しない。どこにも存在しないのだから、誰かが意図的に自分を針で刺したのではないのだから、悪いのは自身の頭の中にあるフィルターなのではないか。そう思ってしまう人は少なくないかも知れない。私自身そのジレンマに苦しむこともある。だが、これはもう言ってしまえば運なのだよなと思い至る。私が不妊症であることは、私がバイセクシャルであることと同じように、誰かが持病を抱えているのと同じように、学習障害を持っていることと同じように、運ただそれによるものに他ならない。その属性に基づいて情報の受け取り方が変わってしまうのは当たり前のことで、そこを恥じる必要などない。
ひと月、ひと月と時間を経ていくことで、不妊症は私のアイデンティティとなっていった。嬉しくないけれど、事実としてそうなってしまったのでは仕方ない。ならばこれは私の大事な一部として、外に見えるようにしてもいいのではと、対面に座る私自身と話し合いそう決めた。表に出すためには今までの野生の感情を一度整理する必要がある。そのプロセスを経ることで、感情をコントロールすることができるのではないか、と。一度表に出してしまえばメリットもたくさんある。海外での不妊治療経験を発信している人はそう多くない。発信する情報が誰かの助けになれば、こんなに嬉しいことはない。
かくして私は情報ブログとエッセイブログのあいのこのような、このブログを立ち上げた。不妊治療に纏わるあれこれや、時には関係ないことも、自分の思いに正直に綴っていこうと思う。恐らく今後は日を追って今までの経緯などを記述していくと思うので、書く内容はリアルタイムではなくなる。一年半前まで遡って始めるので、もしかすると妊娠が成立しても不妊治療について書く状態になるかも知れない。某インフルエンサーがこの件でトラブルを起こしたのは記憶に新しいので、私はあらかじめ断っておくことにする。
最後に。
もしこれを読んでいるあなたが妊娠中・子育て中だったとしても、どうか今まで通りあなたの思いや経験を発信してください。私のこの投稿が、誰かの行動を制限することだけは避けたいのです。私は時にそういった情報をうまく受け止められないことがあるかも知れないけれど、それは私が偶然こうなってしまったからで、あなたが悪いわけではないのです。絶対に。皆様の妊娠生活や子育ての酸いも甘いも、応援しています。発信してください。その情報を必要としている人、楽しんでいる人、勇気をもらっている人は絶対にいます。
もしこれを読んでいるあなたが子どものことで苦しい思いをしているとしたら、お互いうまく頭の中の靄をありのまま受け入れることができるよう祈ります。誰のせいでもない。例えあなたが不必要に傷つくことがあっても、それは当たり前で、あなたはそれを矯正しようとする必要なんかないと、私は思うのです。うまく付き合えるに越したことはないけれど、それは「うまく付き合うという目的のため」であることは決して忘れて欲しくないのです。
これを読んでくれている私の知り合いの方やTwitter仲間の皆様。今まで通りこれからも、どうぞよろしくお願いいたします。
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