コミュニケーションがしたいけれど

まぶしい季節がやってきた。


日本にいた頃の私にとって、季節は「暑い」「寒い」「そしてその間」の大体三つだった。夏は我慢ならないくらい暑く、冬は我慢ならないくらい寒く、梅雨は我慢ならないくらいじめじめする。春と秋はちょうどいいけれどあっという間。季節を分かつものは気温と湿度。移ろう二十四節季を楽しむようなゆったりとした生活に憧れはあるものの、実際のところ私にとっての季節はそのくらいの解像度だ。


緯度の非常に高いフィンランドに住んでいる今、私にとっての季節は「明るい」「暗い」「そしてその間」になった。冬はこれまた我慢ならないくらい暗く、夏はというと我慢はできるのだが、頭がぼんやりするくらい明るい。春分と秋分が季節を分かつ明確な日として存在する。季節を分かつものは明度であり、気温は二の次になった。


今朝起きたちょっとしたアクシデントがこの感覚を象徴している。


どういうわけか、水道からお湯が出なくなった。フィンランドの水道から出る水は日本のそれとは異なり冷蔵庫でキンキンに冷やしたかのように冷たい。前日シャワーを浴びていなかった夫は出勤前にシャワーを浴びる必要があったため、仕方なくその冷たい水で頭を洗っていた。


「冷たい!」と騒ぐ夫に私は「でも冬じゃなくてよかったよね、乾くし」と返した。


実際のところ、ここのところの寒の戻りで今朝の外気温はマイナス5度であった。気温情報のみであれば冬だ。しかし私の口から出たのは自信満々の「冬じゃない」であった。夫に半笑いで「寒いけどね」と返されるまで、自分の言葉を疑いもしなかった。


今の私にとって、明るければそれは冬ではないのだな、と思った。


「夏は暑く冬は寒い」から「夏は明るく冬は暗い」になった。季節を感じるセンサーが、肌ではなく目に移ったようだ。環境は個人の季節の定義さえも変えるらしい。



最近、『見えないわたしの、聞けば見えてくるラジオ』というポッドキャストを一気に聞いた。ホストはブラインドコミュニケーターの石井健介さん。36歳で突然目が見えなくなってしまったという彼のもとに、ゲストが「見せびらかしたいもの」を持ってくるという構成だ。彼とゲストのやり取りはとても楽しく、耳に心地よい。


ポッドキャストを聞いていると、石井さんの言葉にハッとさせられる瞬間がいくつもある。


例えば、赤坂駅に到着した様子を話しているとき。改札を出ると赤坂Actシアター方面からハリーポッターのテーマ曲(Actシアターではハリーポッターと呪いの子がロングランで上演されている)が聞こえるそうだ。音楽の聞こえるほうに歩みを進めるとエスカレーターがある。エスカレーターに乗った石井さんは音楽を聞きながらハリーポッターの魔法の杖と自らの白杖とを重ねる…というようなことを仰っていた。


その言葉を聞きながら赤坂駅の様子を思い浮かべる。真っ黒ながらんどうのどこまでも続く空間の中に、一つの改札機がある。改札を通り抜けると確かにハリーポッターの曲が聞こえる。そちらに顔を向け歩き出す。白杖を頼りにエスカレーターの下に着く。エスカレーターに乗るときの緊張。乗れた。ほっとする。曲はまだ続いている。白杖を振ってみようか、魔法が使えるかも、と思う。


人の話を聞いたときなどにその情景が非常にリアルに思い描けるとき、よく「目に浮かぶようだ」という表現をする。しかし、石井さんの話を聞いて、実際に映像として"目に"浮かぶのは、改札機とエスカレーターのみである。その代わり、スピーカーから流れる例の音楽、手に持った杖と杖で感じる点字ブロックの感覚がありありと思い浮かぶ。駅改札を通ってからエスカレーターに乗るまでの様子を追体験しているとき、想像の中の私は視覚でなく聴覚と触覚を使っている。


世界を感じるセンサーは人によって大分異なるが、コミュニケーションによってその壁を越えることができる。


私は目が見えるので、移動する際には専ら視覚情報に頼りきりだ。耳や触覚は殆ど使わない。普段の私は、自分と全く異なるセンサーを使って移動している人がいることを意識せずとも日常生活が送れてしまっている。しかし、石井さんが自らの感覚を言葉という形でアウトプットして話しているのを聞いたことで、自分の体にも備わっているそのセンサーの存在を改めて実感する。自らの身体感覚を視覚障害を持つ方のそれと重ね、世界を感じる。世界のほうは全く変わっていないのに、使うセンサーが異なるだけで、こうも違って感じられるのか、と思う。おもしろく思うと同時に、普段自分が使っているセンサーには引っかからない世界の不便さにも気づく。自分のマジョリティ性を意識する。



自分と同じように世界を捉えている人は、この世に誰もいないのだな、という当たり前のことに改めて思いを馳せる。私一人の中でも季節が暑い寒いから明るい暗いと定義が変わったのだから当たり前だ。聞こえているもの、見えているもの、皮膚に触れるもの、匂いなど、ありとあらゆる感覚が、個人にとってしか存在しないプライベートな世界を形作っている。同じものは一つとしてない。そしてそれらは言葉によって共有され得る。他者の世界にお邪魔させてもらう経験は、なかなか得難いものだと思う。


視覚の面では私はマジョリティである。しかし、移民である私はフィンランドでは外国人、マイノリティである。私がフィンランドという世界をどう見ているかを言葉によって共有することができたら、誰かが私の経験と自らを重ね合わせ、今まで持っていなかったセンサーで世界を見ることを楽しむことができるかもしれない。想像すると嬉しくなるし、わくわくする。


コミュニケーションの醍醐味だ。


フィンランド語をもっと勉強しよう、というところに帰結する今日の日記。

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